2017/05/13

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あけましておめでとうございます。
でも、「おめでとう」と言いながら、新年からネガティブな話だゾ☆(ゝω・)vキャピ
子供の頃からネガティブな性格だから、しかたがないですよね。
終わりの兆候
まずは旬が過ぎつつある今さらの話題ですが...
トランプが大統領になったとの事。
意外でしたか?
驚きましたか?
私はめっきりTVも新聞も見ていないので、大統領選の経過においても、結果にしても、世間の人達がどう思っていたのか良く分りませんでした。
空気感というか、ノリというか、そういったものが。
トランプ当選後、断片的に目にしたネット情報や直接人から聞いた意見等からすると「結構驚きの結果だったらしい」事は何となく分りました。
例えば「美輪明宏は分ってたらしい。流石美輪明宏!やっぱスゲエ!」的な記事とか。
しかし実は、私も特に驚きは無かったのですよね。
逆にそのような記事を見て「え?美輪明宏持ち出す程、世間じゃ予想外だったの?」とそれに驚く程。
まあ、こういう事は結果が出てから言っても後出しジャンケンぽいのですが...
経過報道では「トランプはあり得ない」みたいなノリだったんですかね?
そういうのを見てないからリードされなかったという事もあるかもしれません。
でも世界的に類似した傾向、「ああいったタイプの人が偉くなる」流れもあるようですし。
「トランプ当選したんだ。まあ、あるかもね」くらいの淡々とした受け取り方をしました。
そして、そういった結果、傾向から何を感じるか?
従来ではあり得なかった事がおこる時代...
何故?
行きつく所まで行きついた。
飽和。
過去(ここしばらく上手い事続いていた)の延長線にモデル、手が無い状態。
一言で言えば「終わりの兆候」
何が終わるのか?
ここ数十年、あるいは100年くらい続いた近代システム。
繁栄、ルール。
大げさに表現すればそんな事を感じました。
いや、トランプ当選以前に色々な事からそれは感じていたので「確認した」といっても良いかもしれません。
色々な兆候
他、断片的な事象ですが、最近こういった事々からも「行きつく所まで行きついてしまった」感があり、終わりの兆候だと感じました。
まずは滑稽さを含む、軽い所からはじめましょうか...
おせちの味が怖い
ちょうど旬の話題「おせち」の話ですが、実は一年前の記事です。
概要としては、「十分加工されパックされた”食材”状態ではなく、生前の姿を強く残したままの食べ物」例えばカズノコやカニ等が「生々しい」「グロテスク」で怖いという事でした。
初めに見た時は一瞬「はぁ!?」と思ったのですが、良く考えるとその感覚、理解できなくもないと思いました。
例えば、毎日のように肉を食べていても、鶏や豚等を「殺して捌け」と言われて抵抗なく出来る現代人はあまりいないのではないでしょうか?(技術は別にして、心理的に)
さらにデリケートな人ならば、目の前でその様を見せつけられただけで肉が食べられなくなるかもしれません。
私自身、子供の頃、ケンタッキー・フライド・チキンのアバラ部分に内臓が付いていた事があり、それからしばらくアバラ部分が気持ち悪くて食べられなくなった経験を思い出しました。
そういう話ならばよく理解できる。
そして「おせちの味が怖い」もそれと地続きの話であると思いました。
「おせちが怖い」を書いた人が特別変なのではなく、皆の「行きつく先」「未来像」なのではないか?
そして、こういった事を何故「終わりの兆候」と感じたのか?
ネズミを怖がるネコ
おせちの話から連想したエピソードにこんな話があります。
「ずっとペットとしてヌクヌク生きてきた猫が、生まれて初めてネズミを見て、驚き怯えて逃げ出した」
初めて聞いた時、滑稽な笑い話であると感じたとともに、どこか哀れさ、恐ろしさも感じました。
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哀れさは、「ペット化」しすぎて他者から「餌」を提供してもらわなければ生きていけない事。
捨てられたり、震災等で野良になったらこの猫、生きていけるでしょうか?
そして感じた恐ろしさは...
人間に置き換えてしまったんですね。
人間。この猫の事、笑えないじゃないか?
「動物を殺して捌けない」どころか「加工された食材しか食べられない」とか。
その恐ろしさを言い換えると、「終わってる」感という事でしょうか。
分業化の進み過ぎ...
消費者と生産者の距離が離れすぎた...
あまりにも「消費者」化しすぎた...
消費者と生産者
「消費者と生産者」という言葉で思い出した、断片的なエピソードを書きます。
安心な米?
一昨年、移住地探し中に、ある有機農家で手伝いをしていた際、そこに直接米を買いに来た人がいました。
マクロビオティックを長年している人で、信用できるオーガニックな米を探していたとの事でした。
そこまでは良いのですが、話をしていると「え?」と思うような事を言いました。
「あそこの米はダメよ。一袋にもみ殻が5粒以上入ってた。」
え?
そりゃ、「商品としてそういうのが嫌だ」というニーズがあるのは分ります。
「無洗米」とかもありますしね。
「洗うの面倒臭い」とか、そういったニーズがあるのでしょう。
同じ様に、「もみ殻取り除くのが面倒臭いから、そういった精度の高い製品が良い」というニーズも分らんでもないです。
でもそれ、オーガニックとかと全然関係ない話じゃね?
「信用できるオーガニックな米」を探してワザワザ有機農家から直接買おうとする人が言う事かと耳を疑いました。
それは「製品としての精度」であり、むしろ工業製品に近い話。
家族経営の小さな農家、工業的なレベルを落として取り組んでいる有機農家にそれを求めるのか?
その人、マクロビ自体の年季は長く、マクロビで子供を成人まで育てたという事でしたが、何か言っている事がチグハグに思えました。
こんな事は、自ら「生産」してみようとすれば、すぐに気が付く事だと思うのですが...
ボロクソ・レビュー
私、以前Androidアプリ(無料の簡単なゲーム)をマーケットに出した事があります。
で、ダウンロードするとレビューが書けますけど、書かれたレビューの酷いモノは、もうそりゃヒドイです。
「死ね」とか「キモイ」の一言のみとか。
ま、昨今そんなモンだと思ってますから、私別に傷つきませんけど、ある時みた「まとめサイト」で気になるコメントがありました。
その「まとめ」記事は、そういったレビューのヒドイ無秩序の是非を問うものでした。
そこに書かれた意見にこんなモノがありました。
「無料でも不完全なモノを提供すべきじゃない」
「レビューとして自由に書く機能があるのだから、何書こうが自由だろ」
これ書くとオジサンの「昔は良かった論」になっちゃいますけど、スマホとか無い時代。
ほんの一昔前はまだ、フリーソフトに対して感謝こそすれ、そんな態度を取る空気はほぼ無かったと思います。
その頃はまだ「生産者」に対するリスペクトがあったからだと思います。
まだまだ有料のソフトも多く、そんな中で「無料で提供してくれるの?ありがてえ!」といった感謝や、使う人(消費者)と開発者(生産者)がある程度地続きだった感もあります。
要するに、生産者を「画面の向こうの一人の人間」として意識出来ていたのかなと。
日常生活、職場等の場面でも同じだと思うのです。
良かれと思って皆の為に無償で働いた人に対して、そんな酷いダメ出ししますか?
朝のジョギング中にゴミ拾いするという輪島功一に対して「ゴミ、ここにまだ落ちてるよ!ちゃんと仕事しろよ!」等と言うでしょうか?
そういった「地続き感」がもう、今は切れてしまった。
分断されてしまった。
つまり、これも「おせち」の話と同じで
「分業化の進み過ぎ」
「消費者と生産者の距離が離れすぎ」
「あまりにも消費者化しすぎた」
のではないかと思うのです。
ネガティブ度の加速する後半へ続く...
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